ランを始めてから、気づけば20年。走り始めたきっかけは「体力の衰えを感じたため」でしたが、長く続いているのは「ゆるく走っているから」だと思っています。
長距離走は苦痛で退屈
長い時間を走った最初の経験は、学校の体育の授業でやらされた長距離走。
授業時間の間、延々と走らされて嫌な思いをしたのを覚えています。
特に嫌だったのが、「つまらない音楽」と「周りの生徒」。
長距離走はとても単調なので、走っている間に飽きてくるのを紛らわせるため、先生が持ってきた音楽を流していたのです。
が、選曲があまりにダサすぎて…。
後半は疲れてイライラしてくるので「ステレオごと壊してやりたい」と何度も思っていました。
音楽は良いものですが、好きなものでなければ、気分を害します。
好みの押し売りは良くないですね。
そして、もっと気になっていたのは、周りの生徒。
当然のことですが、体力は1人1人違って、走るスピードも全く異なります。
そんな生徒が1度に40人以上走るのですから、長距離走が得意な生徒にはガンガン抜かれますし(時には周回遅れにされることも。あれが本当に腹が立つんですよね)、
似たようなスピードの生徒には後ろに着かれて、ジワジワ迫られるしで、自分のペースで走ることができないのです。
常に誰かから”煽られている”様な状態で走る50分は、苦痛以外の何物でもありませんでした。
確かに、よりスピードのある人と走ることで、普段よりも速く走ることができて、タイムを向上させられるという良い側面はあるのですが、
走っていて「楽しい」と感じることは1度もありません。
長距離走の記憶は、”イライラ”とともに。
それが最初の長距離走へのイメージです。
1人で走っても、タイムに縛られていると楽しめない
「もう2度と長距離走なんてやるか。やるなら球技だ!」
と固い決意をして、高校を卒業し、浪人生活を経て大学へ進むのですが、大学に進学すると自分の体力が極端に落ちていることに気づきます。
「少し走っただけ」「階段を1階分上っただけ」で、もう息切れです。
「このままだと、さらに体力が落ちて何もできない体になってしまう」
という危機感から運動を始めることにしたのですが、
球技をやるにはメンバーのスケジューリングに時間がかかって、好きなときに始められないですし、かといって、サークルや体育会に入ってバリバリやるのも違うしなー、などと考えた結果、
手軽でお金があまりかからず、自分の都合で始められるというので行き着いたのが、あれほど嫌だった「走ること」でした。
シューズを買って(最初はよく分からずにバッシュで走ってましたね。変なヤツ)、Tシャツとパンツで毎日夜にランに出かけました。
最初は苦しかったのですが、学校の授業とは違って、自分のペースで走れますし、続けるうちに少しずつ体力が回復していくのを実感できて本当に楽しかったです。
そうして3ヶ月くらい経ったころには欲が出てきて、
「より長い距離を」「より速く」
という走りを求めるようになり、地図を買って、定規で距離を測ってコースを設定し、スタートとゴールの時間を確認して、
「今日は51分30秒」「今日は50分50秒。速くなった。」「今日は53分。どこでロスしたんだろう?」
と、日々のタイムをとって一喜一憂するようになっていました。
ですが、しばらくして、雨か大学のレポートの提出かでランを休んだ日があり、その後、ランを再開しようとしたときに、走ることへの気持ちが萎えてきていることに気づきます。
公式の大会に出て、上位に入ることを目標にするのも現実的ではないですし、タイムを追求するにしても、いつかは限界がくる。
それを思うと、「速く走る」「長い距離を走る」ことに縛られるのに、疲れてきたんですね。
その時、
「このままやっていると、また走ることがイヤになってしまう」と思いましたし、一方で、
「走ることを止めるのはもったいない」
とも思っていましたので、ここで走る目的を変更。
「楽しむために走る」
ことにしたのです。これが、ファンランを始めたきっかけでした。
”柔軟性”と”多様性”がファンランの良さ
楽しんで走るためにやったのは、
・タイムは気にしない
・コースも限定しない
・気持ちの良いペース
・音楽と一緒に
この4つ。
それまで”向上”することを目的にして、縛りをかけていたものを外すことにしました。タイムとコースとペースですね(普段走るコースについては距離を測って、適度な負荷になるように調整しています)。
タイムは気にしませんし、コースもいつも走るコースは決まっていますが、それにこだわることはありません。
本を買いに書店へ、役所へお使いに、スーパーへ買い物に、
何でも走る理由を見つけて外に出て、走るついでに用事を済ませます。
同じ距離を走るにもコースが変わるだけで気分は全く違います。
見える景色も随分違います
また、旅先にシューズを持って行くことでランの多様性は大きく広がりました。
観光もかねて街へランで出かけるのは、ファンランの極みとも言え、ランがやめられない、やめたくない大きな理由の一つにもなっています。
さらに、タイムを気にしなくなったせいで、”ペース”も、自分にとって快適なところで維持できるようになって、気持ち良く走れるようになりました。
そして、音楽。
これは、「学校で走っていた時の苦い思い出を払拭するため…」ではなく、ただ好きなので聞いています。
その時々の気分に合ったものを聞いていますが、ラジオを聞くときも多いです。
やはり、1時間も走っていると飽きてしまうので、適度な刺激は必要です。
ただし、ボリュームは小さく、周りの音が聞こえるようにするのは言うまでもありません。
安全面への配慮は絶対です。
こうして、最初にあった縛りをやめて多様なスタイルでランを楽しむようになった結果、ラン自体を楽しむことができるようになって、今まで続いています。
もちろん、競技としてのランを考えれば、これではいけません。
明確なプランに基づいて、十分な負荷をかけたトレーニングメニューを作り、トレーニングの結果を記録しながら、成長の度合いを確認して、次のトレーニングメニューに生かす、
といったトレーニングの管理が不可欠です。
ですが、長くランを続けるためには、競技力の向上を目的とした厳格さだけでは難しく、どこかに”緩さ”が必要になるのではないでしょうか。
仕事の”厳格さ”とランの”緩さ”でバランス
私が、ランに厳格さを求めないのは、仕事との関係もあります。
どんな仕事でもそうですが、仕事では、厳格さが求められる場面が多々あります。
私の事務所では、最低限求められるラインを維持したうえで、後は、お客様が「どれだけラクができるか」を考えて(言葉を選ぶと”効率化”と言い換えることもできます)仕事をしていますが、それでも、厳格さに気を配るところは多いです。
そういった、厳格さを仕事の中で求められるのに、プライベートの楽しみであるランにまで、それを広げるのはどうにも耐えられません。
仕事の延長として、あるいは、仕事と重ね合わせて、スポーツを楽しむ方も多くいらっしゃいますが、私の場合は、仕事とのバランスを取るために、ファンランを選び、”緩さ”を認めるようにしています。
いつも”厳格”だと疲れ果ててしまって、仕事の意欲が衰えてしまうんですよね(ストイックさが足りないかもしれませんが、許して下さい)。
まとめ
ファンランに転換して”緩さ”を加えることで、ランを長く続けることができています。
仕事で求められる厳格さとのバランスを考えても、ファンランを選ぶことには意味があります。
おまけ
ランを続けていると、走っていない人との「距離に対する感覚の違い」に注意する必要があります。
「走って行ける距離かどうか」で遠いかどうかを判断してしまい、「あ、それくらいなら近いね」といって全く同意を得られないというのは、典型的な「ランナーあるある」です。